今回は天草の炭鉱の歴史などについてふりかえってみましょう。

 

<天草炭田>
  熊本県宇土半島西部から天草諸島一帯にあり、中心は下島。
 石炭は享和(1801〜03)年間に発見され、明治以前から発掘された。
  最盛期の1950年代には志岐、坂瀬川、和久登・涼松、旭・今富、魚貫・権現山・南天の各地区で約20カ所の炭鉱が稼行していた。しかしこれらは1975年までにすべて閉山した。
 平均7280kcal/kgのキラ炭、瓦ケ炭と称する半無煙炭・無煙炭を産す。
 炭層は白岳・砥石両層にあり、主炭層は砥石層の八寸・二尺・四尺の3層。
 この地域の埋蔵炭量は約1066万トンであり、1956年度以降に採掘された炭量は450万トン、未採掘炭量は約450万トン、未採掘炭量は約600万トンである。

(写真、資料は熊本県高等学校教育研究会地学部会より引用)

 石炭から石油へのエネルギー革命が進む中、天草で最後まで残った炭鉱が魚貫炭鉱である。

 右写真は石炭の粒度を揃えた後、船積みする前にダンプトラックの荷台に石炭を供給する施設跡。採掘された石炭は、クラッシャー(破砕機、現在痕跡も残っていない)からこの建物の上部に石炭が供給される。石炭の粒度にあわせて1階に3カ所のトラック用供給口があるのが見える。

 右写真は魚貫炭鉱の鉱口のひとつ、切羽(きりは:採炭現場)は海底に続く。炭車(トロッコ)が往復していた。カンテラヘルメット(電球つき鉄兜)を被った炭鉱夫たちがトロッコに乗り込み猛スピードで線路を下って行く、次に、掘り出した石炭を積んでトロッコはこの鉱口から上がって来る。

  仕事を終えて上がってきた鉱夫たちの顔は石炭で真っ黒であった。すぐそばに大浴場があり、鉱夫たちは体についた炭塵を洗い流して家路についた。
 石炭を積載したトロッコはこのあと選炭場(せんたんば)へとケーブルで引かれてゆく。選炭場では女性の働き手が多かった。(選炭婦と呼ばれた)