天草の人口爆発の歴史について考えませんか?

 天草の人口の推移はどうであったか。寛永十四年(1637)天下の耳目を聳動したキリシタン乱直後は、名代官、鈴木重成の〃天草亡所開発仕置〃による村落再編も近藩からの移民導入によってすすめられねぱならぬ状態で、万治二年(1659)一万六千人にすぎなかったのであるが、元禄四年(1691)、ようやく三万四千三百五十七人になった。
  これまでは移民による人口快復である。その後は自然増加がすすみ、延享三年(1746)には七万四千六百五十人、百姓相続仕法発布前後の寛政六年(1794)には十一万二千人、騒ぎ百姓不穏の空気みなぎる天保三年(1832)には十四万三千四十一人になっている。この趨勢はさらに慶応四年=明治維新(1868)十五万六千百六十一人、大正十三年(1924)十九万五千三百四十四人と倍増へのカーブを描くのである。この天草における人口爆発の現象は,全国的に見た場合、特異な現象であったそうである。
(引用 天草海外発展史 北野典夫著)

 天草の人口は、全国的な少子化や地域経済の低迷などにより年々減少し、昭和30年当時は約24万人でしたが現在では約14万人となっています。特に、高齢化率は約28%と全国平均をはるかに上回っており、超高齢社会への対応が重要な課題となっています。
(引用 天草合併協議会ホームページより)

 江戸時代に日本の人口が停滞した理由の一つに、「間引き」(まびき)という風習があげられています。我ら天草人の祖先は「間引き」を行わず、その結果として上記の人口爆発現象となるわけです。
  この人口爆発は見方を変えれば、天草人の血の広がりであり、天草人は誰も彼もの祖先が混血し、共通のルーツを持ってしまっている・・・「天草人は、みんな他人ではなく親戚だ」ということがいえます。

 ちなみに、オニ管の親戚は牛深市魚貫町、本渡市亀場町、本渡市本町、五和町御領、それ以前のルーツをたどれば、天草町小田床、倉岳町、大分県日田市、鹿児島県肝属郡、といった具合で、天草の島中に親戚縁者が広がります。これは、私一人に限られたことではなく、天草人なら、ほとんどの人が天草中に親類をもっているというのが事実です。

 日本の他の地域と異なり、天草に被差別部落というものがないのは、キリシタン乱後の人口爆発もその要因のひとつでもあります。そして、 魚、米、芋、といった食べ物は何でも、今でも自然に近所と分け合う。「相互扶助」と改めて言わなくても互いに助け合って暮らしてゆく。そんな天草に被差別部落ができるヒマなどないのです。
  家を留守にするときも鍵などかけない。逆に、鍵をかけて家を留守にすると泥棒にあう。まさに、天草は相変わらず「ああ西海の別天地」(天草高校校歌)です。