(2003/7/28 熊日コラムより)

NHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の最大の見せ場、巌流島の決闘シーンのロケが牛深市の茂串海岸であった。この時期、家族連れや若者でにぎわうビーチはにわかに決闘場に“変身”。ロケ現場は白い砂浜の照り返しも受けて熱気に満ちた。

 報道関係者にロケ現場が公開されたのは撮影初日の二十二日。東京などから訪れた約五十人のスタッフと宮本武蔵役の市川新之助、武蔵の決闘相手、佐々木小次郎役の松岡昌宏のほか、地元エキストラを含む約三十人のキャストが暑さの中、慌ただしくリハーサルと本番を繰り返した。NHKによると、県内で大河ドラマの本格的なロケがあるのは初めて。

 巌流島の決闘があったのは、一六一二(慶長十七)年四月十三日朝、関門海峡に浮かぶ船島(巌流島は後の名称)で。約束の時刻から二時間半ほど遅れて到着した武蔵は、櫂(かい)を削って作った木刀で小次郎を倒した、とされる。

(天草キリシタン史より)

 江戸幕府は、ついに慶長十七年(1612)京都や長崎などの直轄領に対してキリシタンを邪宗と断じて禁教令を出し、翌慶長十八年十二月二十二日(1614.1.31)には、これを全国の大名領にまで及ぼして大迫害を開始、有名なキリシタン大名ジュスト高山右近らをマニラに追放するなどの措置をとった。この禁教令、ひいては右近の国外追放は、キリシタン武士団の豊臣方に味方するのを防止するねらいもあったようである。

 徳川幕府による大禁教令の直前、寺沢志摩守の天草では、イエズス会の神父たちが、志岐、上津浦の村々でまがりなつにも伝道を統けていた。志摩守は、領内のキリシタン・バテレンを、やむを得ず放任していたのである。したがって、志岐と上津浦の司祭館は健在であった。上津浦の神父は、足を伸ばして肥後方面にまで伝道した。大矢野島のキリシタンは、実に熱烈な護教の態度を示していたという。

 キリシタン断圧を強行すれば、同宗の農民が逃散してしまう。キリシタンを野放しにすれば、公儀の方針に反することになる。寺沢志摩守の天草経営は、曲芸師のバランス感覚をもってなされなくてはならなかった。そしてついに、慶長十八年末の大禁教令を契機に、キリシタン弾圧の強化徹底に転じたのである。
その時の富岡城番代職は、川村四郎左衛門であった。彼は、志岐の教会堂を破壊し、バテレンのガルシア・ガルシェスに退去を命じた。上津浦駐在のママコス上人が、二十余年後の天草四郎出現を予言した『末鑑(すえかがみ)の書』を残してマカオに去ったというのも、この時の伝説である。

(オニ)
 巌流島の決闘があった慶長17年を契機に、幕府のキリシタン弾圧が強化されていくことになります。そして、25年後の寛永十五年(1638)二月二十七日(太陽暦四月十一日)幕府方最後の原城攻めが始まりますが、その時、小倉・小笠原勢の中に宮本武蔵が軍監として従軍し、死にものぐるいで抵抗する天草キリシタンの石つぶてが、一発武蔵の臑(すね)に当たることになります。その場に倒れた彼は、乱後しばらく歩行困難を訴えています。
 天下無双の剣聖の生涯一度の敗北を武蔵は天草島原の百姓に嘗めさせられたわけです。このあと武蔵は寛永十七年二月肥後の細川忠利に招かれ、客臣として熊本に赴くことになります。時に57歳であったとの記録があります。