裏管理人の私(オニ)が天草についていろいろと考える時に、本棚から引っ張り出して読んでいる本です。残念ながら私は著者の北野典夫氏とは面識はないのですが、みくに社長井上重利氏とは、30年程前、ふとした機会に親しく会話させてもらったことがあります。 著者の北野氏、井上氏のお二人とも既に故人ですが、出版後30年を経ようとする時、天草の今を生きる私たちが忘れかけていることを、問いかけています。
ここに、井上社長の序辞と北野典夫氏の自序を紹介させていただきます。詳しい内容を読んでみたいと思われる方には残念ですが本書は絶版になっており、書店で購入できません。
                          序

 誰かがしなくてはならないのだから、僕がやってみよう。--こう言って、畏友・北野典夫氏は執筆にとりかかった。昭和五十一年晩秋のことである。翌五十二年の新春号から、画期的な形式による『天草海外発展史』が〃みくに〃を飾りはじめた。連載一年有半、ここに前編が完結、一本として読者に提供することとなった。協力者として私は、まことに喜びに酎えない。

 まず『ある結論、ある序章』と題して、江戸時代後期における天草の百姓一撲から説き起こした。美しい島天草、貧しい島天草−。そこにひしめく人々のパイタリティは、そっくりそのまま薯者のペン先に乗り移った。天草はまた、『唐船やオラソダ船との接触』を持ち続けた。これが島の人々の海外指向性を刺激し続け、やがて幕末開国-。天草島民のエネルギーは、開港長崎の基盤づくりに投入された。『長崎開港の隠れたる父・北野織部』『虹の設計者・小山秀之進」1薯者は、みずからの曾々祖父兄弟の事蹟を通じて、沸騰する天草のエネルギーを見た。

 現在、薯者は、明治四年、北海道に入地、日高国杵臼の天草人村を築いた開拓者たちをテーマに『蝦夷地開拓と辺境精神』を〃みくに〃に連載中である。さらに、北はシベリア満州、南は東南アジア、濠洲周辺、南米、その他世界各地に雄飛した天草の先輩たちについて、執念を燃やしながら取材と執筆の活動を続けている。これも一本にまとめ、本書の後編として出版の予定である。著者の緻密な研究調査と達意の麗文によって、『天草海外発展史』は後世史家座右の書として集大成されるにちがいない。

 著者は、天草海外発展史を、天草人のバイタリティの所産だと見ている。著者自身が、人をして瞠若たらしめるパイタリティの化身ではないのか。海に憧れて挫折した青春時代、十年間も闘病生活を余儀なくされたこの人にしてこのバイタリティ、そのよってきたるところは何か。二十数年に及ぶ交友を通じて、私は著者の人となりを知っている。著老の心に燃えつづげる郷土天草への愛が、その根底にあるのだ。それは『天草の郷愁』『天草のこころ』『天草農民干拓史』『熊本の民謡・天草の部』などなど数々の著書をつらぬきとおしている基本精神となっているところでもある。

 天草とは何か、天草いかにあるべきか。-これこそ薯者がみずからに間いつづけ、われわれに問いかけつづけている課題である。『天草海外発展史』の労作によって、著者は、天草を考えるためのよすがを、また一つ、われわれに提示してくれた。本書が少しでも多くの人々に熟読されるよういささか蕪辞をつらね、友情の証(あかし)として序を寄せる次第である。

                          昭和五十三年九月一日
                          みくに杜長井上重利
      自序にかえて
      海鳴りの果てに

 一隻の帆前船が、名にし負う早崎海峡の渦潮を乗り切って、千々岩灘から外洋の天草灘へ舳先をむけた。藍より青い海に、見えかくれつつイルカの群がうねりながら遊弋している。「アゴん飛うどる。」一人の水夫が叫んだ。海面すれすれにつばさをひろげて飛翔するアゴ、すなわち飛魚の翅体は青く、海水よりも透きとおって見えた。「アゴよ、可隣にして生命力みなぎるアゴよ、お前は、何処から来て何処へ行こうとしているのか…。」燃える感慨が、水夫の胸をしめつける。野母岬、雲仙嶽、天草島…ギラギラ輝く夏雲が湧きたっている。「さらば故郷、だんだん天草…。」

 その船が何処をめざLていたのか、また何処で遭難したのか、いっさい不明。そのころ太平洋をわが物顔に乗り廻していた白人の捕鯨船に救助されたのか、水夫たちは、その後、アメリカ合衆国に上陸し永住した。キリシタン・バテレンの子孫だからというわけでもあるまいが、その中の一人が洗礼を受け、バイブルを日本語に翻訳した。その邦文聖書は、天草弁で書きつづられていた。わたしは、もう一度、ここにはっきり記録しておきたい。その〃聖書は天草弁〃で書かれていた。天保年間(一八三〇年代)の出来事である。

はるかな八重の汐路をたどりきたった黒潮 が、悠久の歴史を洗い流れる西海僻遠の青螺島天草--ここに住む人々の心身には、古来、文豪頼山陽から〃人生の応援歌〃として贈られた「雲耶山耶呉耶越カ、水天髣髴青一髪、萬里、舟ヲ泊ス……。」絶唱〃天草洋の詩〃に象徴される雄渾無比のエネルギーが内在していた。バイタリティを内包していた。

 その発露である天草島民の海外発展史は、幕末時代、対岸の長崎を拠点に展開していく。しかも、開港長崎の基礎を築きあげたのは天草人であった。万延元年(一八六〇)、天草郡赤崎村庄屋北野織部は、長崎の外国人居留場建設事業を〃日本国の名誉〃にかけてやってのけた。フランス人宣教師ヒューレ神父、つづいてプチジャン神父の依頼で元治二年(一八六五)、国宝大浦天主堂を建築したのは、織部の実弟小山秀之進(天草郡御領村大島)である。彼はイギリスの冒険商人トーマス・グラバーと提携して高島炭鉱開発その他に従事し、日本の夜明けをもたらすのに一役買っている。雨の日はいよいよ異国情緒をそえる長崎のオランダ坂、その石畳に使用したおぴただしい量の石材は天草砂岩、技術も天草石工、その建設に投入された労働力は天草島民であった。オランダ坂は、けだし、正確には〃天草坂〃と称すべきであろう。

 明治四年(一八七一)五月のことである。越前加賀藩の蒸汽船が、長崎から針路を北にとり、目本海を松前、すなわち北海道へむけて航海していた。二十一世帯、九十三人の民間人が便乗している。天草から出発した開拓移民団である。現地では、粗末な堀立小屋に住んで悪戦苦闘、先人未踏の大自然にいどむ。かくして北海道の一角に〃サラプレッド(軽種馬)の故里〃として天草村が築かれた。杖を川に立てておいても倒れない--それほどびっしり群がる鮭の動きを目で追いながら、一人の妻がつぶやいた。「わたしゃ、イワシのしゃあ(お菜)でカライモぱ食おごたる。」鍬を体めて夫がやさしく徴笑んだ。「カライモ食わんですむごて遠かここまで来たっじゃなかとかい・・・。」ああ,さいはての北海道でなつかしむ郷愁のカライモとイワシの味。…

 明治八年(一八七五)には、主として農家百一世帯、四百九十六人が球磨地方へ移住、人吉市岩清水にはいまも天草人町がある。同郡へは、天草の寺院も進出した。明治十八年(一八八五)、太平洋を渡ってハワイ移民、同三十九年(一九〇六)さらに赤道を越えてブラジル移民開始、やがて、北はシベリヤ、南はジヤバ・・。とくに東南アジアヘの進出めざましく、南洋各地に天草人町が出現する。ゴム園経営、マニラ麻栽培。「マニラの麻、もって日本の旗を繋ぐべし。」-菅沼貞風著『新日本図南の夢」−そのころ、地理学老志賀重昂が世界旅行を試み、南米チリーのとある船付場で、チョンマゲを結った日本人船長に出くわした。「わしは、天草漁民だ。漂流してここに住みついた。」という。志賀はまた、アラピヤの秒漠で、「モシモシ」一人の女から日本語で呼びかげられる..「三十年ぶりに日本人の顔を見ます。」にこにこ笑うその婦人は、天草の出身であることを告げるのであった。

 地球を半周した南阿の仏領マダガスカル島でレストランや映画館を経営していたただ一人の日本人、天草郡高浜村出身の快男子赤崎伝三郎。日露戦争当時、はるぱる廻航中であ ったバルチック艦隊の動静を、ボンベイの日本領事館付武官宛通報したことであまりにも有名である。やはり高浜出身の笠田直吉はマレー半島で成功したゴム園王。不幸に嘆くカラユキさんの救済に尽力する。

 カラユキさんのトツプ・レデイ、その人の名は字良田唯子。豪快なハイヤ節の天草郡牛深村出身。日本の女医さんとしては最初のヨーロツパ留学をやってのけた人である。天津に渡って眼科、産婦人科医を開業、同仁病院の院長として仁術をほどこす。鍛子(どんす)の袴をはきこなした大柄な女丈夫、中国人患者から聖者のように慕われた。反面、貧しさゆえのカラユキさん哀話…。しかし、彼女たちも、その悲惨を越えてアジア各地に壮絶な人生詩をうたいあげたのである。

 貧しいということは、恥ずかしいことではない。その中で、いかに生きたかが問題なのだ。人非人の村岡伊平次(島原出身)ら人身売買業者どものことはさておき、彼女たちは、泣きごとも言わず、へこたれもせず、みずからの人生を大海原の彼方へ雄飛させた。異国人への売春という〃破天荒な挺身行為〃に、わたしたちはむしろ、天草人の特性である勇気とバイタリテイを学ぶ。惰弱な精神で、決行できることではない。よしんぱそれが、底辺女性史的表現であったとしても、彼女たちに罪はない。けっして、天草の恥などではない。その時代が、余儀なくさせたことである。

 海よ、天草の海よ。ーあるときは秘めやかに、あるときはとどろとどろと、お前が響かせる海鳴りの果てに、『天草海外発展史』という金字搭が聳えている。世界中、どこへ行っても、わが天草人の足跡が見あたらぬところはないのである。金字塔の全面くまなく刻まれた文字を探りながら、先輩たちの進取の気象を読みすすめようではないか。歳月に風化し、薄らぎゆきながらも、その文字は、自主独立の生きる気慨を失いかけている現代のわたしたちを、叱咤激励してくれるにちがいない。

 わたしは、海外発展の歴史にいろどられたこの島を愛する。そして、天草人の一員としてカラユキさんの存在をも誇りに思っている。満腔、もろもろの感情に大きくゆさぶられながら。…

昭和五十二年一月一日
著者 記